沿革

北海道水産工業の歴史

【1933年  昭和8年】

北海道道会議員として北海道開拓に携わっていた田中清輔が、道庁の依頼により北海道の八つ目鰻(ヤツメウナギ)漁の支援をする為に、その販売を企画した。

北海道には八目鰻(ヤツメウナギ)の食文化がほとんどなかったため、道内では販売出来ず、そこで清輔は息子の清之に東京に販売拠点を築き、北海道の特産物として「やつめうなぎ」を内地で広めるよう指示した。

そして清之は本州に渡り会社を設立。北海道産にこだわった八目鰻(ヤツメウナギ)活魚並びに素干品の卸販売を主業務として現在の新宿三丁目に事務所を構えた。北海道水産工業のはじまりである。

当時八目鰻(ヤツメウナギ)の配達はリヤカーにより行われていた。また、大型の荷物の移動はオート三輪が主流であったが、馬車も使用していた。現在の東京環状6号線などの大きな通りでは、馬の糞を清掃する光景が見られた時代である。

【1937年  昭和12年】

やつめうなぎは春と秋にしか捕れず、また保存が難しいために年間通して安定した商いが出来ずにいた。そこで油を搾りカプセル状にした製品を開発した。医薬品「ホルゲン肝油球」の製造承認を取得。品名の「ホルゲン」は「ホルモンの源(みなもと)」から命名された。

【1938年  昭和13年】

玉置商店と総発売元契約を締結。

【1939年  昭和14年】

9月ごろから満州玉置、朝鮮玉置を通して「ホルゲン肝油球」を中国及び朝鮮に販売をする。樺太でも販売を行った。

国内では紡績会社などへ、ヤツメウナギの乾物や「ホルゲン肝油球」の販売を行う。工場で糸を紡ぐ人々から、手のガサガサささくれなどが治ると評判になった。

【1941年  昭和16年】

この頃カプセル状の栄養剤とは別に「やつめホルゲン軟膏」や、渋谷区にあったホームラン製菓の技術指導により「やつめホルゲン ビタミンゼリー」などの商品も製造販売したが、ほとんど売れなかった。一方、東京都豊島区巣鴨にある「八つ目や西村」と、ホルゲン肝油球及び八目鰻活魚、素干品の取引を始める。

【1943年  昭和18年】

現北朝鮮に事業所を構え、川に戻ってくるヤツメウナギを捕り、満州(現在の中国東北部)に住む日本人を相手に販売を行う。

【1945年  昭和20年】

5月1日空襲が激化、会社が軍事工場に近いため新宿三丁目より強制退去させられ渋谷区氷川町21番地に移転。5月25日、移転先の渋谷で空襲に合い社屋焼失。6月1日、田中清之の自宅であった中目黒に会社及び工場を移転。8月終戦に伴い、朝鮮の事務所を閉鎖、本社へ引き上げる。

【1949年  昭和24年】

六合薬品(株)と総発売元契約を締結。

【1964年  昭和39年】

『田中清純』代表取締役社長に就任。六合薬品は合併し、東興薬品(株)と総発売元契約を締結。

【1967年  昭和42年】

現医薬品「やつめホルゲン」の製造承認を取得。

【1972年  昭和47年】

東興薬品は合併し、大木製薬(株)と総発売元契約を締結し現在に至る。

【1975年  昭和50年】

北海道江別市にあった搾油工場兼事業所を常呂郡置戸町に移転。

【1985年  昭和60年】

置戸工場にてやつめうなぎ食品加工、健康食品「ホルゲン」の製造を手がける。

【1992年  平成4年】

国内産ヤツメウナギ原料の不足により、業務の大幅縮小を余儀なくされる。その後、置戸事業所(前)所長 田中清郷が渡米。原料調達に成功し窮地を救う。更にヤツメウナギを求めロシア、中国へ渡り原料仕入れルートを開拓。

【2005年  平成17年】

栄養機能食品(ビタミンA)「やつめホルゲンEX」を発売する。

【2014年  平成26年】

『田中清純』代表取締役会長に就任。『田中啓一』代表取締役社長に就任。